History
ホア アイナ オ マカハの歩み
Land Shared In Friendship –Planting Seeds of Hope
1979年8月、ジジ(ルイジ・コキオ)神父はハワイ オアフ島のワイアナエ地区の教区に移り住みました。
そこでジジはシスターアンナと出会いました。
短い会話の後、シスターアンナはジジの気概を試すことにしました。
彼女は彼をマカハ谷近くの、広さ5エーカーの未開の土地に連れて行きました。
土地は荒れ放題、見わたす限りの雑草で、草やぶがくずれかかった
3つのクオンセットハット(かまぼこ型兵舎)の行く手を阻んでいました。
そしてシスターアンナは言いました。
「ジジ、この土地は教会に属しています。私たちはここで何かをしなければなりません。」
その年の12月、ジジは教区からファームの1つ目のクオンセットハットへと引っ越しました。
そのすぐ後に、シスターアンナの父のエドも加わりました。
やがて、ワイアナエ地区のカアラファームからはエリック イーノスが数人の若者を連れて彼らを手伝いに来ました。
彼らはトラクターや草を刈る鎌を持ってきました。
また、教会から来た男性グループはブルドーザーを持ってきてジジたちを手伝いました。
土地の一部分はきれいになり、水道管が通り、彼らが種をまき植物を育てられるようになりました。
そして彼らはそこで野菜を育て収穫するようになりました。
プアナニという人がこの土地を「ホア アイナ オ マカハ」とハワイ語で名付けました。
それは「マカハ地域の友情の土地」を意味しています。
マカハのワイアナエラップセンターは、ワイアナエやナナクリ地区の高校生のための、薬物乱用リハビリテーションプログラムの機能を有していました。
地域の高校生たちはカアラファームのつながりから、オルタナティブスクールをファームに作りました。
7年の間、2つの農場は1台のトラクターを共有して使いました。
ジジが来るまで、クオンセットハットは先の第二次世界大戦でアメリカ空軍が使っていたため、古くてあまりいい状態ではありませんでした。
3つあったうちの1つ目は、住居空間として使うようになりました。
ファーム後方にある3つ目はラップセンターの新しい学校として使われるようになりました。
2つ目はワイアナエ女性サポートグループによって使われるようになりました。
シスターアンナによって作られ、ホオオイポ デカンブラ、ボビー スペンサー、ジュディ セラディス、サンディ ビエラらが賛同し、サポートグループは女性や彼女らの家族の元を訪れ問題解決にあたりました。
彼女たちは、経済的問題からカウンセリングなどの感情面のサポート、食料支援、識字教育、家族のための手早い調理法に至るまで様々な支援を提供しました。
これらの業績は別としても、彼女たちはワイアナエコーストの女性の口述歴史を「タイム フォー シェアリング」という本にして出版しました。
この本はハワイ大学マノア校の女性学の研究分野でしばしば参考文献として使われてきました。
女性サポートグループは、女性たちが自分のライフヒストリーを共有し、生活に影響を与える問題について話し合いができる安全な場所でした。
そこでの自分以外の女性へのサポートは、彼女たち自身や彼女たちの家族にとって新たな希望を意味していました。
言い換えると、女性サポートグループが女性としての尊厳を回復することができる場所になっていたのです。
そこからさらに新たなビジョンが生まれました。
リーワードコーストの公立学校が提案したグローバルな平和の展望から広まった、いわゆるピースエデュケーション(平和教育プログラム)です。
地域の高校では、争いや暴動やほかの暴力的な出来事が発生していましたが、住民の小さなグループが子どもたちの安全に関心を向け始めました。
シスターアンナは、リーダーシップと展望と勇気を持ち合わせ、彼女たちはワイアナエ高校の校長に直談判しました。
しぶしぶ校長は学校にピースエデュケーションを取り入れることに同意しました。
そしてそれは全く害を及ぼすものではありませんでした。
1981年から1999年にかけて、ピースエデュケーションは、リーワードコーストからハワイ中の何千もの子どもたちに届けられました。
そのプログラムは教師たちにワークショップを提供し、本でその内容を公開されました。
平和について教えることは日本語にさえ翻訳されてきました。
ピースエデュケーションは、世界中の平和団体とつながりを作ってきました。
彼らのプログラムはハワイやそれ以外の学校でのモデルとなってきました。
その間に、ファームはアウトリーチプログラムと農作物の収穫も順調に進み、着々と成長していきました。
そして1983年までにジジは家族を持ちました。
ジジはジュディ サラディスと結婚し、彼女の二人の息子であるバディとスコット、そしてジジとジュディの息子ポマイカイとナナクリに住んでいました。
ファームは十分な運用資金がなかったために、彼に十分な給料を払うことができませんでした。
ジジはコーンと豆をファームで育て始め、それらを路上で売ろうとしました。
数年後、コーンと豆とバジルが豊作の年に、ファームは彼に少しばかりの給料を払うことができるようになりました。
コミュニティの家族たちはファームが庭を作り始めたことに興味を持つようになりました。
ひとつにはファームが30家族に小さな農園の区画を分けたことがあります。
次第に、マカハ小学校の教師たちは、生徒とともにファームの庭の世話をするようになりました。
すぐに事業は、数ドルのために多くの時間捧げているコミュニティのメンバーとともに、バジルを育てて出荷する方向にシフトしました。
もちろん物事はスムーズなセーリングのようには進みませんでした。
どういうわけか、エド ガーロックとジジはトラブルメーカーとしての評判を高めていったのです。
彼らが初めて上陸したとき、教区はジジとエドがいることを全く望んでいませんでした。
おそらく、マルコスが2人を強制的にフィリピンから退去させた事実のせいでしょう。
彼らがその悪評を追い払おうとするがごとく、とても熱心に働いたにも関わらず、です。
ファームのメンバーは、ハレ モハルというハンセン病患者団体と政府に対抗する努力に活動的になっていきました。
当時のハワイ州知事のアリヨシ氏は、ハンセン病患者たちをパールシティから追い出して、彼らの住居を取り壊しました。
彼らは非核運動と太平洋地域の独立キャンペーンと、フィリピンと中央アメリカにおける平和のための活動支援に取り組みました。
しかし、ファームは依然としてトラブルメーカーという存在で見られていました。
おそらく、それは教区においてジジの初めの説教となったのでしょう。
本当に小さいことですが、それはたまたまアメリカが広島に原爆を投下したのと同じ日付でした。
初めのうち、住民の一部はファームに対して疑わしい目を向けていました。
というのも、ワイアナエにおいて「助ける」ために出てきた善意のプログラムが、資金繰りが行き詰まり事業を折りたたむのに飽き飽きしていたからです。
その他の教区の人たちは、1950年代に土地を購入したときに描いていた教会の建物と、1980年代に形作られた信仰のコミュニティの関係性を見出すことができませんでした。
言うまでもなく、長い議論が繰り返され、途中でいくつか意見の不一致さえ起こることがありました。
学ぶべきことはたくさんありました。
さらに、何か新しいものが生まれるときには、産みの苦しみなしに新しい命は決して来ないものです。
そしてファームの展望は成長を続けました。
ラップセンターの人々、教区の友人たち、そしてホノルル地域活動プログラムは、ファームのプログラム支援の資金調達のために頭を寄せ合い始めました。
援助は様々な方法で方々からもたらされました。
女性サポートグループはクオンセットのシロアリ対策をしました。
ジョン ドーテリー神父と敬虔な信者のダン ディーバ―氏は、経済面でもファームコミュニティの精神面でもサポートしました。
状況はしばしば劣勢でしたが、ファーム運営は何とか続くことができました。
1986年にジジと家族はファームに越してきました。
その間に、ワイアナエメンタルヘルスセンターのクウメアアロハ ゴメスは、ファームでのカウンセリングとガーデニングプログラムを始めました。
彼女はクライエントを無機質なオフィスで話すのではなく、彼らをファームに連れてきました。
彼らが種まきをして雑草を抜くとき、彼女は彼らと話をしました。
その会話は、ワイアナエコーストの子どもたちにとって、より自然でより生産的に見えました。
彼女はこのプログラムを「ナ ケイキ オ カ アイナ(大地の子どもたち)」と呼びました。
1987年にマカハ小学校の校長であったハゼル スミレ先生は、ジジに彼女の全ての生徒たちと一緒に作業ができるかどうか尋ねました。
初めのうち、彼はいくらか問題のある生徒たちと一緒に、クウメアアロハが始めたガーデニングを続けながら作業をしました。
彼らはまた「子どもビジネス」の店を始めました。試みはやりがいがあり生産的でした。
ある日、ある生徒がどうしたらファームのプログラムの一員になれるか尋ねたときに、相手の子が、いい加減な奴になったらいいんだと答えたのをジジは耳にしました。
ジジは、ファームが生徒たちのために何ができるかはわかっていましたが、彼らが実際に経験から得られるのはどんなメッセージか考え始めました。
そして「ナ ケイキ オ カ アイナ(大地の子どもたち)」誰もが土地の世話をしてお互いケアし合うプログラムになりました。
ジョゼフ フェラリオ司教とホア アイナの委員会の導きによって、ホア・アイナ・オ・マカハは正式な非営利団体となりました。
指導者たちの独立した委員会が、コミュニティのメンバーで成立し、1992年8月には教区とホアアイナ・オ・マカハの賃貸借契約は正式なものとなりました。
式典では向こう25年間、年間1ドルの賃料で合意がなされました。
後に問題が起こらないよう、全額がそのときに支払われました。その間、ファームは世界中からハワイやワイアナエコミュニティの活動に興味がある人々をもてなすようになりました。
イギリスやフィリピン、イタリアやアメリカ本土のほか、最も強いつながりは横浜の「赤い靴」という団体と大阪のマイチケットというスタディツアーを主催する旅行会社でした。
たいていの場合、人々はジジのクオンセットの床で眠るために、ワイキキでの滞在を先送りしていました。
ファームの委員会は、人々が来たいと望み、文化交流をし、一緒に作業や食事をしたい場所でありたい、と願うようになりました。
そしてワイアナエの人々との平和な世界を夢見るようになりました。
1994年、アメリカでの困難な資金調達と、日本・イタリアの友人たちからの多大な援助を受けて、平和教育プログラムのホームとなる2つ目のクオンセットのリフォームをすることが決まりました。
ジジは彼の母親を訪問する予定があったため、リフォームはファームのスタッフとワイアナエとホノルルからのボランティアスタッフに委ねられました。
その計画はクオンセットに窓を取り付け、内側をリフォームすることでした。
広島と長崎の原爆投下から50年を経た1995年8月7日に、ハレ ホオマルヒア(平和をもたらす家)は完成しました。
多くの人がボランティアとして自分たちのスキルを提供し、時間とエネルギーをかけたおかげでそれは完成しました。
それは、60年間島の人々を愛し活動に身を捧げた後に、ニューヨークのメリーノールに呼び戻されたシスターアンナの信念と働きに捧げられました。
彼女の信念に基づくライフストーリ―と経験を共有することを通して、ハレ ホオマルヒアは、世界の平和と団結の強い絆を得られるかもしれないという願いの下に世界中の人々を迎えることができました。
相互理解を通して平和を見出すこのビジョンの一部は、メ ケ アロハ プメハナ マイ ハワイイ (ハワイからの深い愛)は、ハワイの現実をイタリアの人々と共有する意図で生まれました。
1997年にこの夢は現実となりました。
17人の若者と大人が、ジジの故郷であるイタリアのウジャッテを訪れたのです。
この旅は、グループにとってだけではなく、ウジャッテや周辺の村の人々にとっても素晴らしい経験となり、長く続く友情が育まれました。
現地のバロック様式の教会の美しさと、フラの優雅な動きが、そこにいた全員が感じていた愛と歓迎の中で一体となりました。
ホア アイナが成長し、マカハ小学校からの新しい教員が新任地に移るにつれて、オアフ島中の学校から教育目的でファームを訪れたいという要望が出るようになりました。
結果として、1996年にホアアイナ・オ・マカハには学習センターが設立されました。
1998年から1999年の1年間に4千人の生徒たちが、ハワイ固有種の庭作業や、動物の世話や代替エネルギーのついて学ぶために日帰りでファームを訪れ、ケ アラプログラムが生まれました。
それはファームの作業の一環でしたが、このスクールワークプログラムは教育部門の行政機関のちょっとした助けで、1997年にもっと組織的な方法で始まりました。
プログラムの目的は、マカハ小学校の子どもたちに実際に働く経験に興味をもたらすことでした。
3年生から6年生の子どもたちは、有機農業をする者、ハワイ固有種の専門家、大工、学校訪問者へのファーム案内役、店員など異なる作業の立場に申し込むことが出来ました。
彼らが申込書に記入した後、責任やその立場から生じる義務について学ぶ訓練やインタビューを経なければなりませんでした。
しばしば、どうしてそのプログラムに参加したいのかインタビューを受けた際に子どもたちは、「家族を助けられるように、すぐに仕事を見つけたいからさ。その準備をしたいんだ」と答えました。
1998年には、クイーン リリウオカラニ子どもセンターのスタッフであるビル ストクス氏が、マカハ小学校の子どもたちが修学旅行に参加できるようにと「マラマ マカハ クレジットワーク」という新しいプログラムを思いつきました。
両親に参加を呼びかけて、ファームの一区画を所有し、平日にファームで、子どもたちのサポートをするというような内容でした。
1999年に、ホア アイナは「The Love Was Already There(愛はすでにそこにありました)」という初めての本を、20周年のお祝いに出版しました。
2000年に多くの人の支援を受けて、「ハレ ハウマナ」が建てられました。
それはハワイアンの伝統的なハレ(家の意味)で、学んだり、お祝いをしたり文化を実演したり、瞑想をするような場所でした。
同じ年に、アロハ プメハナ マイ ハワイイ グループは、ジジの生まれ故郷ウジャッテの教区と市長の招待により、聖年を祝うために再びイタリアを訪れました。
ローマでは、ハラウはヨハネ パウロ教皇と会って踊るチャンスがありました。ウジャッテで、彼らは国際的な聖年のお祝いのためにドイツやインド、クロアチア、トーゴ、バングラデシュからの人々も一緒に加わりました。
2005年、教育機関は教師の人数を削減しました。
ケ アラプログラムは3年間、教師が派遣されましたが、資金不足のためにホア アイナはそのプログラムを閉じることを決めました。しかしコクア ハワイ ファンデーションの支援により、ケ アラプログラムは活動し続けています。
コクア ハワイ ファンデーション:ハワイのノースショアを拠点に世界中で活躍しているミュージシャンのジャック・ジョンソンが妻のキムとともに設立した非営利団体。ジャックがジジの活動に賛同し、ジジとの親交をきっかけに、ホアアイナ・オ・マカハはコクア ハワイ ファンデーションの主要なパートナーとなっている。
https://kokuahawaiifoundation.org/aina/partners
2008年には、「Through The Eyes of Children(子どもたちの目を通して)」という2冊目の本が出版されました。
それは子どもたちとの経験を通して学んだ人生で大切なことが集約されています。
ホアアイナ・オ・マカハの歴史は、何百という人々の支援がなければ、何も成し遂げられなかったことを私たちに教えてくれました。
ホアアイナ・オ・マカハの信念と哲学は、この地への期待や変化の確信がなければ現実にはならなかったでしょう。
ホア アイナは、生活や活力を捧げ、そのビジョンを支持し続けている特別な人々の恩恵をうけています。
全ての人の支援があり、ひとつの混沌とした土地に平和なオアシスが生まれました。
この場所を得るためには多くの試練がありました。
これからももっとあるでしょう。
しかし、人々がホアアイナ・オ・マカハの信念を信じて、コミュニティや子どもたちに意味を見出すだなら、試練に直面してもいいことが起こり続けるでしょう。
”E Malama Ika ‘Aina, Nana Mei Ke Ola”
Take Care of the Land, It Grants You Life
大地の世話をすることはあなたに命を与えます